沖縄の歴史を語る上で欠かせない存在、それが琉球の初代国王と伝えられる舜天です。彼は一体どんな人物だったのでしょう?今回は、神秘に包まれた舜天の生涯をたどりながら、彼にまつわるゆかりの地を巡る旅へとご案内します。さあ、琉球のルーツを探る歴史の冒険に出かけましょう!
第一章:まさかあの英雄が父?舜天と為朝伝説の不思議な繋がり
琉球の歴史をひも解くとまず驚くのが、舜天(しゅんてん)の出生にまつわる壮大な伝説です。なんと、彼の父は源平合戦時代に「鎮西八郎(ちんぜいはちろう)」の異名で恐れられた源為朝(みなもとのためとも)だというんです。
日本史に名を刻むあの豪傑が、まさか沖縄とこんなにも深く繋がっていたなんて、信じられますか?
伝説によれば、保元の乱に敗れ伊豆大島に流された為朝はその後、嵐に見舞われた船で遥か南の海を漂流し、奇跡的に琉球時代の沖縄本島へと漂着したと伝えられています。
そして為朝は漂着した地で地元の領主大里按司(おおざとあじ)の娘と出会い、恋に落ち、一子をもうけました。それが後に琉球の王となる舜天だった、というなんともロマンあふれるストーリーなんです。
しかし、為朝と舜天が共に過ごした時間は長くはありませんでした。舜天がまだ幼い頃、為朝は故郷への思いや、新たな野望を抱いてか、妻子を残し再び海の向こうへと旅立っていったとされています。
幼い舜天にとって、父の存在は伝説となり、やがてその血筋が彼の運命を大きく左右することになります。
第二章:15歳で按司に!若き天才・舜天の浦添での活躍
父、為朝譲りの優れた才能と武勇を持っていたとされる舜天は、その若き頃から並々ならぬ資質を発揮していました。なんと彼は、わずか15歳という若さで、当時の有力な地方豪族である浦添按司(うらそえあじ)の地位に就いたという驚きのエピソードが残されています。
琉球における「按司」とは?
当時の琉球では、まだ統一された王国は存在せず、各地に独立した勢力を持つ按司(あじ)と呼ばれる領主たちが割拠していました。按司は、自分の領地を治め政治や軍事を司る、まさに地方の支配者でした。
彼らはそれぞれの城塞(沖縄読みではグスク)を拠点とし、時には互いに争い、時には協力しながら、その勢力を拡大していきました。そんな時代に弱冠15歳で按司の座に就くというのは、舜天がいかに卓越した人物であったかを示しています。
浦添の地と舜天の功績
舜天が按司となった浦添は、現在の浦添市にあたります。琉球の歴史において、浦添は古くから政治的・文化的中心地として栄えていました。
舜天は若くして按司となりながらも、その優れた指導力と公正な政治で領民から厚い信頼を得て、浦添の地を治めたと伝えられています。
現在の浦添の様子
現在の浦添市は、那覇市に隣接し、商業施設や住宅が立ち並ぶ活気ある都市へと発展しています。
かつての城である浦添城跡は、整備された公園として市民に親しまれ、歴史を学ぶ場にもなっています。また、美しい夕日が望める牧港海岸など、自然を満喫できるスポットも多いんですよ。
古くから栄えたこの浦添の地を訪れると、若き日の舜天がこの場所で、後の琉球の礎を築くために奔走していた姿が目に浮かぶようです。
第三章:悪を討ち、新時代を拓く!舜天王統誕生の物語
浦添按司として活躍していた若き舜天。彼の生きた時代は、琉球の歴史において大きな転換期でした。神話の時代から長く続いてきたとされる天孫氏(てんそんし)の王統が、ついに終わりを告げようとしていたのです。
当時の琉球は、既に沖縄各地が按司(あじ)と呼ばれる有力者たちによって、それぞれの地域が独立した形で治められていました。
そのため、天孫氏の王統は、もはや各地を実質的に支配できるほどの権力を持っておらず、どちらかというと象徴的な存在になっていたと考えられています。
そんな中、天孫氏の配下に利勇(りゆう)という逆臣が現れます。彼は当時の天孫氏の王を毒殺し、神話の時代から続いた王統を滅ぼしてしまいました。それによって琉球は混乱の極みに達したと伝えられています。
この利勇の暴虐を見過ごすことができなかったのが、浦添を治めていた舜天でした。悪行を正し混乱を鎮めるため、彼は利勇討伐を決意します。
父為朝譲りの武勇と優れた統率力で兵を率いた舜天は、見事利勇を討ち果たしました。
この戦果は、単なる反乱鎮圧ではありませんでした。利勇を倒した舜天は各地の有力者をはじめ多くの人々からその功績を称えられ、各地の按司をまとめる王の位に就いたと伝えられています。
こうして天孫氏に代わる新たな王統として舜天王統が興りました、これは、琉球における神話の時代が終わりを告げ、新たな歴史の幕が開いたことを意味しています。
舜天の即位は、後の琉球王国へと繋がる、まさに重要な転換点だったと言えるでしょう。彼の決断と行動がなければ、琉球の歴史は全く違うものになっていたかもしれませんね。
第四章:永い眠りにつく場所はどこ?舜天王の墓にまつわる二つの説
こうして琉球の国王に即位した舜天王はその後、琉球に善政を敷き、在位51年で生涯に幕を降ろしました。
そんな彼がいま彼がどこに眠っているのか、その墓の場所については実は二つの有力な説が語り継がれています。どちらも決定的な証拠はないものの、それぞれに人々の思いや伝承が込められているのです。
北中城村の「ナスの御嶽」説
一つ目の説は、沖縄本島中部に位置する北中城村仲順(きたなかぐすくそんちゅんじゅん)にある「ナスの御嶽(うたき)」です。
御嶽とは、沖縄で神が宿る聖地として崇められてきた場所を意味します。このナスの御嶽は、中城湾を見下ろす丘の上にある自然の岩陰を利用した聖域で、古くから舜天王の墓とされてきました。
地元の人々の間では、この地こそが舜天王の眠る場所だと信じられ、大切に守られています。
ナスの御嶽周辺は、現在も豊かな緑に囲まれ、静かで厳かな雰囲気が漂っています。
近くにはのような歴史的建造物や、中城城跡(なかぐすくじょうあと)や中村家住宅など歴史的建造物もあり、高台から南国の海を見下ろす落ち着いた時間を過ごせるスポットもあります。
南城市の「イームイ御嶽」説
そしてもう一つ有力な説が、沖縄本島南部の南城市(なんじょうし)にある「イームイ御嶽」です。こちらもまた、舜天王の墓であるという言い伝えがあり、地元の人々に深く信仰されてきました。
イームイ御嶽は、中城湾南側を一望できる丘の上の景勝地島添大里グスク(しましーうふざとグスク)の麓に位置する集落内にあります。
南城市は、世界遺産に登録されている「斎場御嶽(せーふぁうたき)」や、「ニライカナイ橋」からの絶景など、神聖な場所や美しい景色が楽しめるエリアです。イームイ御嶽の周辺も、自然が豊かで歴史と神話を感じさせる場所が点在しています。
どちらの御嶽が真の墓所であるか、今もはっきりとした結論は出ていません。しかし、琉球の人々が伝説の王をいかに慕い、その功績を語り継ごうとしてきたか、この二つの墓所説からその思いを感じ取ることができます。
謎に包まれた墓所を訪れることは、舜天王のロマンに触れる、特別な体験になるはずです。
第五章:伝説の王統?歴史の狭間に揺れる舜天王統の真実
ここまで舜天王の波乱に満ちた生涯や、彼にまつわる数々の伝説、そしてゆかりの地を巡ってきました。しかし、この舜天王統は実は歴史学的にはその存在が「伝説的」とされていることをご存じでしょうか?
確かに、『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』をはじめとする琉球の主要な歴史書には、舜天が琉球の初代国王であり、その血筋が後の琉球王朝へと繋がっていくことが記されています。
しかし、残念ながら、現代の歴史研究において、舜天王統の時代を明確に裏付ける確たる考古学的な発見や、同時代の確実な文献資料は極めて乏しいのが現状なんです。
それでもなお、舜天王統が琉球の人々にとって重要な存在であり続けているのは、それが琉球のアイデンティティやルーツを示す大切な物語だからと言えるでしょう。
舜天王統は、単なる過去の物語ではなく、琉球の人々の歴史意識や文化を形作る上で、今も息づく大切な「伝説」なのです。
まとめ
舜天王の物語は、単なる昔の歴史書にある記録という意味合いを超えた、かけがえのない宝物です。
沖縄を訪れる際には、ぜひ彼の足跡が残る地を訪れて、この神秘的な歴史とロマンに触れてみてください。きっと、沖縄の魅力をより深く感じられるはずですよ。
あとがき
舜天王の伝説が語り継がれているのは沖縄だけではありません。源平合戦時代において最強クラスの戦闘能力を誇った英雄である父・源為朝の活躍から連綿と続く物語として、江戸時代には大人気ベストセラーの講談本として一世を風靡したこともあるのです。
そのタイトルは椿説弓張月(ちんせつゆみはりつき)、著者は南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)の作者でも知られる曲亭馬琴(きょくていばきん)です。
鎖国体制が敷かれ外国への行き来ができなかった当時、人々は為朝と舜天の活躍を通して、見知らぬ異国のロマンを想像していたのでしょうね。
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