琉球王国を支えた奇跡の船・進貢船の秘密

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琉球王国はかつて東アジアの「海の架け橋」として繁栄しました。その繁栄の要となったのが、中国へ使節と貢物を運んだ進貢船(しんこうせん)です。進貢船は単なる貿易船ではなく、琉球王国の外交と経済の命運を乗せた「国の宝」でした。その船の歴史や特徴を知ることは海洋国家琉球の壮大な物語を紐解くことにつながります。本記事では進貢船の歴史と役割その知られざる秘密を徹底解説します。

進貢船とは何か歴史と役割・そして琉球の繁栄

進貢船は、14世紀から19世紀にかけて琉球王国が中国(明・清)へ使節と貢物を運ぶために使用した、国営の大型船です。

これは単なる交易船ではなく、中国皇帝に臣下の礼を取る「朝貢(ちょうこう)」という外交儀礼、および琉球国王の即位承認を得るための冊封(さっぽう)儀礼の遂行という、極めて重要な外交上の役割を担っていました。

進貢船がもたらした最大の成果は、外交儀礼に付随して認められた、中国との公的な交易(互市(ごし))です。

これにより琉球は、周辺諸国との貿易の中継地として発展し、「万国津梁(ばんこくのしんりょう)」(世界の架け橋)と呼ばれる海洋国家としての地位を確立したのです。

進貢船による貿易活動は、中国からの絹織物や陶磁器を日本や東南アジアに転売する中継貿易を基盤とし、琉球王国の存続と繁栄にとって不可欠な経済的基盤となりました。

進貢船の歴史は1372年の明への派遣が第1号とされ、14世紀から16世紀にかけて、東南アジアの広範囲にまで交易船を派遣する大交易時代の最盛期を築きました。当時の船は長さ約30メートルに及ぶ大型船です。

しかし、17世紀に薩摩藩による琉球侵攻が起こると、進貢船の役割は変化します。経済的な利益だけでなく、薩摩の支配下にあっても独立国としての体面を保つための外交的な意味合いがより強くなりました。

進貢船は、中国のジャンク船の様式を取り入れた唐船(とうせん)と呼ばれる構造で、その運航には国家の総力が注がれていました。冊封の際には中国から冊封使が乗る冊封船が来航し、進貢船は琉球から中国へ向かう公的な船でした。

およそ500年にわたり、進貢船は琉球王国の栄枯盛衰を見届け、1874年(明治7年)の派遣を最後に終わりを迎えたのです。

~14~16世紀の琉球の交易活動は、明朝の朝貢・冊封体制下の優遇された諸条件を基盤として、海域世界に構築されていた民間交易ネットワークに便乗し、また港市那覇の外来諸勢力を王府が活用して進められたものであった。そして琉球は朝貢国間の関係をある程度前提にしつつも、各国・各地域の設定する独自の外交秩序に接近あるいは適合させるようなかたちで自らの姿勢を選択し、外交を行っていた。~

笹川平和財団

進貢船の船体構造と航海の秘密

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進貢船は、その航海の安全性と積載能力を確保するため、中国で発達した唐船(ジャンク船)の様式を取り入れていました。琉球の職人が建造したものですが、技術的には中国の造船技術が基盤となっています。

進貢船が航行したルートは、那覇から慶良間諸島を通過して、まず久米島に寄り、中国の福州(ふくしゅう)(交易指定港)へ向かうのが基本でした。

航海は季節風に頼るため、往路は主に秋から冬の北東の季節風(ミーニシ)を、帰路は夏場の南西の季節風を利用しました。しかし、当時は気象予報もなく、進貢船の航海は常に嵐や遭難の危険と隣り合わせでした。

そのため、航海術だけでなく、祈りや呪術的な要素も重視されていました。こうした危険な航海を乗り越えることが、進貢船の乗組員の誇りでもあったことでしょう。

進貢船が運んだもの・琉球中継貿易の全貌

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進貢船が運んだ積荷は、単なる琉球の特産品だけではありませんでした。琉球王国の経済を支えた中継貿易の役割を反映し、日本や東南アジアの品々が大きな割合を占めていました。

進貢船の積荷は大きく貢物(朝貢品(ちょうこうひん))と交易品(互市品(ごしひん))に分けられます。

積荷の構成と主要な品目

  • 貢物: 中国皇帝への献上品であり、琉球の特産品(馬、硫黄、貝、刀)や、日本から入手した刀、扇、屏風などが含まれていました。これらは形式的なものでしたが、朝貢を継続する上で不可欠でした。
  • 交易品(輸入): 進貢船の最も重要な目的は、中国から生糸や絹織物、薬材、陶磁器などの貴重な品を輸入することでした。特に絹織物は、アジア市場で需要が高く、高値で取引されました。
  • 交易品(輸出): 中国から輸入した絹織物などは、琉球を経由して日本へ輸出されました。反対に、日本から運ばれた銀や工芸品は、東南アジアや中国へ再輸出されました。

琉球の中継貿易は、自国の産品ではなく、異なる地域の産品を仲介することで利益を上げる仕組みでした。

また、日本や東南アジアとの交易には、進貢船とは別に専用の貿易船も用いられましたが、中国との交易においては進貢船がその役割をほぼ一手に担っていました。

この中継貿易によって得た富こそが、琉球王国の黄金時代を築いた最大の要因です。

進貢船の乗組員には、外交の専門家である進貢使や通事(通訳)、そして船を操る船頭や水夫など、総勢100名近くが乗船しました。

彼らは、単なる船乗りではなく、琉球の外交官、商社マン、船乗りという複数の役割を兼ね備えていました。その航海は国を代表する大事業であり、帰港時には盛大な歓迎を受けたのでした。

進貢船が残した遺産・現代に残る琉球の誇り

進貢船は歴史の舞台から姿を消しましたが、その存在は現代の沖縄の文化やアイデンティティに深く根付いています。進貢船が築いた海洋国家としての歴史は、琉球の誇りとして今も語り継がれています。

進貢船の遺産と文化的な影響

  • 進貢船の意匠: 船の形状や装飾は、現代の沖縄の工芸品や観光施設のデザインモチーフとして利用されています。特に船首の獅子や船体の目玉は、当時の人々の航海安全への願いを象徴するアイコンです。
  • 港の発展: 進貢船が発着した那覇港周辺、特に那覇の東町地区は、交易の拠点として発展し、当時の街並みや文化の一部を今に伝えています。
  • 琉球舞踊・組踊: 冊封使の歓待や進貢船の出航・帰港の様子は、琉球舞踊や組踊などの伝統芸能のテーマにも取り入れられ、その記憶を留めているのです。

進貢船の歴史的な意義を示す資料は、沖縄県内外の博物館に保存されています。特に、船の様子を描いた古文書や、中国との外交文書である進貢文書などは、当時の国際情勢や琉球王国の立ち位置を理解する上で貴重な史料となっています。

また、沖縄の各地には、進貢船の乗組員や使節団が無事に帰国できるよう航海の安全を祈った聖地・御嶽(うたき)や寺社などが数多く残されています。

進貢船が示してくれたのは、琉球がアジアの文化と経済の中心として、いかに国際的な視野を持っていたかという点です。

進貢船の物語は、琉球王国が平和的な交易によって富を築き、独自の文化を育んだという歴史を教えてくれます。

この遺産は、現代の沖縄が国際社会の中でさらに発展していくための指針の一つとも言えるでしょう。

まとめ

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琉球王国の進貢船は、中国への朝貢と公的な交易を担った国の官船です。14世紀後半に派遣が始まり、15〜16世紀に最盛期を迎え、琉球を「万国津梁」(世界の架け橋)たらしめた中継貿易の経済的な要でした。

この記事が、遥かな海を渡った進貢船への興味を深めるきっかけとなれば幸いです。当時の人々の情熱とロマンを感じてみてください。

あとがき

かつて沖縄県南城市の「おきなわワールド」に展示されていた、進貢船の実物大レプリカ「南都丸」を、筆者は実際にこの目で見ています。

2014年に解体され今は見られませんが、目の前に立つとその巨大さと、当時の琉球王朝が海を舞台に繰り広げた壮大な交易のスケールに深く感銘を受けました。

沖縄の青い海を眺めるたび、この海原を100名以上の乗組員が乗った唐船が進み、万国津梁の夢を繋いでいた頃に思いを馳せたいと思います。

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