沖縄の戦後を支えた脱脂粉乳の歴史と記憶

戦後の沖縄において子供たちの健康を守り抜いた「脱脂粉乳」をご存知でしょうか。現在は学校給食から姿を消したこの白い飲み物は、食糧難の時代に栄養源として欠かせない存在でした。アメリカからの援助物資として届いた粉乳は、当時の沖縄の人々にとって希望の象徴でもありました。本記事では、戦後沖縄の給食文化を象徴する脱脂粉乳の役割や、当時の暮らし、そして現代に語り継がれるエピソードについて詳しく解説します。

戦後沖縄の給食と脱脂粉乳の始まり

第二次世界大戦後の沖縄は、地上戦による壊滅的な被害を受け、人々の生活基盤が失われたことで猛烈な食糧不足に陥りました。

成長期にある子供たちの栄養状態は深刻な社会問題となっており、その命の危機を救ったのがアメリカからの人道的な救援物資であるアジア救援公認団体(LARA)からの贈り物によって調達された脱脂粉乳でした。

1949年頃、米軍統治下の沖縄において教育環境の整備とともに本格的な学校給食制度が開始されると、この脱脂粉乳は献立の主役としての座を揺るぎないものにしました。

調理の過程で熱を加えても、時には粉末が完全には溶けきらずに白いダマとなって底に沈んだりしてしまうこともありましたが、その中身にはタンパク質やカルシウム、ビタミン類といった成長期に不可欠な栄養価が極めて豊富に凝縮されていました。

この栄養たっぷりのミルクが学校給食に提供されたことにより、戦後の深刻な栄養失調に苦しんでいた子供たちの体格は著しく向上し、抵抗力の強化や健康状態が劇的に改善されたのでしょう。

教室に広がるミルクの湯気と香りは、学業に励む子供たちの心を温かく包み込み、復興へと向かう沖縄の力強い歩みを支える精神的な糧としての役割も果たしていたといえるでしょう。

  • 1949年頃から米軍統治下の沖縄で本格的な給食支援が開始されました。
  • 当時の脱脂粉乳は「ミルク」と呼ばれ、栄養不足を解消するための貴重なタンパク源でした。

このように、脱脂粉乳は単なる飲み物ではなく、戦後復興を目指す沖縄の当時の子供たちのエネルギー源となっていました。当時の厳しい状況下で、将来を担う子供たちを育てようとした大人たちの願いが、この一杯に込められてました。

~ララ物資の中から,干肉と脱脂粉乳が学校給食に 振り分けられ,それをもとに給食が行われた.給食 実施校はアメリカ軍の社会事業部が指定していた. その展開を見れば,1949 年の初め頃首里の初等学 校を給食指定校とし,干肉等を配布して給食させて いたが間もなく伊江,粟国,三和,港,城西の 5 初等学校まで広げた.同年 5 月には食糧事情が悪 い地域にある豊川,崎本部,北谷,屋良,渡慶次, 平敷屋の 5 初等学校を指定し,3 か月間給食を実施 した.8 月にはさらに 25 校を指定し,給食を行っ た.同年 11 月には沖縄の全初等学校に脱脂粉乳を 配布してミルク給食を実施した。~

J-Stage

当時の子供たちが感じた脱脂粉乳の味と体験

現代の子供たちが給食の時間に口にする、冷蔵設備でしっかりと冷やされた新鮮で美味しい牛乳とは異なり、かつての沖縄で提供されていた脱脂粉乳には、その時代を生きた人々にしか分からない独特の記憶と複雑な思い出が深く刻まれています。

当時を経験した多くの方々が、共通して「独特の強い匂い」や「表面に張る薄い膜」の感触を鮮明に記憶しており、その個性的な風味ゆえに、当時の子供たちの間でも好き嫌いがはっきりと分かれる飲み物としての側面を持っていました。

しかしながら、日々の食事さえも事欠くほどに深刻にお腹を空かせていた子供たちにとって、その一杯のミルクは、単なる飲み物以上の価値を持つ空腹を満たすための極めて貴重な栄養源であったことは間違いないでしょう。

栄養失調が珍しくなかった過酷な社会状況下において、温かいミルクが胃袋に染み渡る感覚は、子供たちの心と体を支える大きな力となったと思います。

たとえ口に合わないと感じる瞬間があったとしても、それは生きるために欠かせない大切な一杯として、毎日の学校生活の中で重宝されていたのです。

給食の時間になると、校内の共同調理場から大きなバケツや重厚な容器に入れられた熱々のミルクが運び出され、当番の子供たちが協力し合って各教室まで慎重に運び、クラスメート一人ひとりの食器へと丁寧に配られていきました。

当時の設備では保温が難しかったこともあり、冷めてしまうと脱脂粉乳特有の獣のような臭みが一段と強くなってしまうため、湯気が立っている温かいうちに一気に飲み干すのが一般的な光景でした。

これらのエピソードからも分かる通り、脱脂粉乳は単なる援助物資の枠を超え、戦後沖縄の教育現場や子供たちの日常に非常に深く根付いた存在となっていました。

大人になってから「あの匂いだけはどうしても苦手だった」と苦笑いしながら語る声がある一方で、苦難の時代を共に乗り越えた象徴として「あの味がたまらなく懐かしい」と目を細めて振り返る年配の方も少なくありません。

脱脂粉乳を囲んだ給食の風景は、戦後の混乱から復興へと突き進んだ沖縄の歩みを象徴する、決して忘れることのできない原風景の一つとして、今もなお当時の人々の心に残り続けているでしょう。

沖縄の給食における脱脂粉乳と現代の牛乳の比較

現在、沖縄の学校給食では新鮮な生乳を使用した牛乳が提供されていますが、脱脂粉乳時代とは内容が大きく異なります。ここでは、かつての脱脂粉乳と現代の牛乳の違いを表にまとめました。

項目 戦後の脱脂粉乳(ミルク) 現代の学校給食牛乳
主な成分 牛乳から脂肪分を除いて乾燥させた粉末 新鮮な生乳(全脂乳)
提供方法 お湯で溶かして温かい状態で提供 紙パックや瓶で冷えた状態で提供
主な供給源 アメリカなどからの援助物資 沖縄県内などの酪農農家
役割 飢餓の防止と栄養補給 食育とバランスの良い栄養摂取

高温多湿な気候でありながら冷蔵庫が一般家庭に普及していなかった当時、常温で長期保存が可能であり、かつ軽量で大量輸送に適した脱脂粉乳は、人々の栄養状態を支える極めて合理的な食材といえるでしょう。

戦後の食糧難の時代、ミルクはまさに命をつなぐ貴重な栄養源として重宝されました。かつては海外からの「救援物資」や「配給品」としての側面が強かったその存在は、時代の移り変わりとともに、大きな変貌を遂げていきました。

遠い地からの支援に頼っていた時代を経て、今やミルクは「地産地消」の象徴である地元産の新鮮な牛乳へとその姿を変えました。地域の豊かな恵みとして、私たちの食卓を彩っています。

今は無き「ミルク」の記憶を次世代へつなぐ

時代の移り変わりとともに食生活は豊かになり、現在の沖縄における学校給食の現場から、かつての主役であった脱脂粉乳は完全に姿を消しました。

今では新鮮な生乳が当たり前のように提供されていますが、その一方で、脱脂粉乳という白い飲み物にまつわる記憶は、戦後の混乱期と激動の時代を懸命に生き抜いてきた世代の人々たちの中に、今もなお色褪せることなく強烈に残っています。

学校での平和学習や、地域の年長者から歴史を学ぶ貴重な場において、当時の給食風景や脱脂粉乳のエピソードが語られることは、深い教育的意味を持っているでしょう。

まとめ

戦後の沖縄で子供たちの命を繋いだ脱脂粉乳は、アメリカからの支援により始まり、栄養不足解消に劇的な役割を果たしました。独特の味や匂いといった記憶とともに、当時の人々の苦労や愛情が込められた特別な飲み物でした。

現在では生乳に代わりましたが、この歴史を知ることは沖縄の復興の歩みを理解することに繋がります。当たり前にある今の食事に感謝し、かつての「ミルク」が支えた時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

あとがき

戦後の沖縄で脱脂粉乳が果たした役割は、一杯のミルクに込められた重みに深く感動します。飽食の時代に生きる私たちにとって、当時の「ミルク」は食べ物への感謝を思い出させてくれる大切な教訓でしょう。

当時、たまにですが「ミルメーク」と言うコーヒー味の小さい袋に入った粉末が給食に出たときは脱脂粉乳に溶かして飲んでました。その時だけは脱脂粉乳が美味しく飲めた事を思い出します

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