琉球随一の魔物ハンター・日秀上人の足跡を辿る沖縄妖怪退治紀行

青い海と照りつける太陽、独特の文化が息づく沖縄――その歴史を紐解けば、数々の英雄や伝説が眠っています。今回ご紹介するのは、琉球の歴史において特異な輝きを放つ日秀上人(にっしゅうしょうにん)についてです。仏教の力で魔物を退治したと語り継がれる、まさに琉球随一の魔物ハンターです。荒波を乗り越え琉球へと辿り着いた上人の足跡を辿り、神秘的な伝説と美しい自然が織りなす沖縄を巡る旅へ、皆様をご案内しましょう。

第一章:荒波を超え琉球へ – 戦国を生きた真言宗の僧・日秀上人と補陀落渡海の物語

今からおよそ500年ほど昔、日本が戦国時代真っ只中だった頃、当時の沖縄すなわち琉球王国に、海の彼方から一人の僧侶がやってきました。彼は人々から尊敬の念を込めて日秀上人と称された人物です。

そんな日秀常人は南国琉球の地にどのような足跡を残したのでしょうか。まずは、彼がどういった経緯ではるばる海を超えてやってきたのか、そこから見てまいりましょう。

”戦乱の世”高野山で修行を積んだ真言宗の僧

日秀上人は、激しい戦乱が繰り広げられた戦国時代に高野山で出家した真言宗の僧侶です。15世紀末から16世紀にかけての日本では、各地で戦国大名が勢力を争い、社会全体が不安定な状況でした。

そのような時代に、日秀上人は精神的な中心地の一つであった高野山で、弘法大師・空海が開いた真言宗の奥深い教えを学び、厳しい修行に身を投じました。

この混沌とした時代背景は、人々の心に不安を与え、精神的な救いを求める動きも高まっていたと考えられます。日秀上人もまた、そうした時代の流れの中で、自身の信仰を深めていったのでしょう。

紀伊国熊野那智からの補陀落渡海

戦国の世を生きる中で、日秀上人は特別な願いを抱くようになります。それは、紀伊国熊野の那智(現在の和歌山県那智勝浦町)から、小さな船に乗り、観音菩薩の住むとされる補陀落(ふだらく)浄土を目指して大海原へと漕ぎ出す補陀落渡海への挑戦でした。

生きて還ることがほぼ不可能に近いこの厳しい儀式は、極限的な信仰の表れであり、当時の仏教者たちにとって、究極の精神的な行為の一つとされていました。

戦乱の世の不安定さを感じていた日秀上人にとって、清らかな世界への願望は、より一層強いものだったのかもしれません。

琉球への漂着

長くそして危険な航海を経て、日秀上人はついに琉球の地に辿り着きます。当時の琉球は、日本本土とは異なる独自の歴史と文化を持つ独立した王国でした。

戦国時代の日本とは異なり、琉球王国は比較的平和な時代を享受していました。しかし、自然災害や、時には不可解な妖怪変化的な現象に悩まされることもあったようです。

そこに現れたのは、見慣れない異質な世界から来た一人の僧侶でした。戦国の世を生き抜いてきた日秀上人の精神力は、琉球の人々の目にどのように映ったのでしょうか。

彼の奇妙な旅路は、これから始まる琉球での数々の伝説的な物語の、ほんの序章に過ぎなかったのです。

第二章:金武の地に現れた巨大な影 – 上人と大蛇の伝説を追う

日秀上人が最初に足を踏み入れたとされるのが、現在の沖縄県国頭郡金武町(きんちょう)です。豊かな自然が広がるこの地で、上人は早速、人々の困り事に直面することになります。

金武町での怪異

当時、金武町には、それはそれは恐ろしい人食い大蛇が住み着いていたと言い伝えられています。田畑を荒らしたり子どもを襲って食べたりするこの大蛇を村人たちは非常に恐れ、大変な苦労を強いられていました。

密教の秘術で大蛇を討伐

そんな金武町の惨状を見た日秀上人は「この苦しみから人々を救わねば!」と決意し、大蛇の住処へと向かいます。

大蛇との対峙は、激しいものであったと想像されます。しかし、伝えられるところによると、上人は力ずくで大蛇と戦ったのではなく、高野山での修業によって会得した密教の秘術を用い、大蛇を退治したとされています。

こうして、金武町を恐怖に陥れていた大蛇は姿を消し、平和と安寧が戻ったと言われています。

この大蛇を密教の力で退治したという伝説は、今も金武町の人々の間で語り継がれており、日秀上人は村の守り神のような存在として崇められています。

金武町に残る足跡

大蛇封印の伝説が残る金武町には、日秀上人の足跡を感じさせるスポットがいくつか存在します。

その代表的な場所が金武観音寺(きんかんのんじ)です。このお寺は、日秀上人がこの地に住んだ時に建てたと伝えられており、地元の人々からは金武の観音様として親しまれているようです。

境内には大蛇の住処であったとされる洞窟があり、現在では日秀洞と呼ばれ、聖なる場所として敬われています。洞窟の奥には金武権現水天の神仏が祀られており、今もその神聖な雰囲気が漂っています。

第三章:浦添・経塚に秘められた力 – 妖怪を封じた経文と地名の由来

琉球王朝の王府があった首里の近郊には、経塚という意味深な地名の地区があります。その地名の由来にも、魔物ハンター・日秀上人の活躍があったのです。

経塚での経文埋納

王府の位置する首里の近郊で、かつて琉球の中心地であった古都・浦添(うらそえ)に、地元で人々を惑わす妖怪がいたと伝えられています。その妖怪がどのような特徴をもっていたのか、現在では定かではありません。

その妖怪が現れる場所はかつて、松が生い茂る寂しい丘だったそうです。そんな中、困っている人々の様子を見て立ち上がった人物がおりました。日秀上人です。

日秀上人は妖怪が現れるという丘に、お教(金剛経)を書いた小石を埋め、その上に金剛嶺と記された石碑(塚)を建てました。それ以降、この地に巣食っていた妖怪は鎮められ、人々は安心して暮らせるようになったと伝えられています。

この伝説から、その丘の周辺地域は経塚と呼ばれるようになり、それが現在も地名として残っているのです。

経塚の現在

現在、日秀上人の金剛経が埋められたとされる場所は経塚の碑と呼ばれる史跡となっており、浦添市経塚の住宅地内に位置するうちょうもう公園という公園の中に位置しています

経塚周辺の様子

浦添市経塚周辺には、琉球王国時代に整備された石畳道が残る安波茶橋(あはちゃばし)や、伝統舞踊・組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の墓などの史跡があります。

少し北西に足を延ばせば、浦添市美術館や浦添大公園といった文化施設や自然豊かなスポットも点在しており、歴史と現代の生活が調和したエリアとなっています。

また、大型商業施設サンエー経塚シティにも近く、ショッピングを楽しむのにも便利です。

第四章:魔物退治だけではない – 波上宮における日秀上人の知られざる功績

那覇にある波上宮(なみのうえぐう)は、古くから琉球の人々の信仰を集める神聖な場所です。日秀上人は、魔物退治だけでなく、この波上宮の再興にも貢献したとされています。

那覇・波上宮との関わり

波上宮の略年表によると、1522年(大永二年)に倭僧である日秀上人が波上宮を再興したと記録されています。これは、当時荒廃していた波上宮が日秀上人の働きによって立て直されたことを示しています。

彼は、精神的な指導者として、地域の人々の心の拠り所となる神聖な場所の復興に尽力したと考えられます。

現在の波上宮

現在、波上宮は多くの参拝者が訪れる沖縄を代表する神社の一つとなっています。崖の上に朱色の社殿が建つ美しい景観は、訪れる人々を魅了します。

日秀上人が再興に尽力したこの神聖な場所は、今もなお、琉球の人々の精神的な中心として、その恵みを与え続けています。

第五章:再び故郷から薩摩へ – 日秀上人の九州での足跡

晩年の日秀上人は琉球を離れ、日本本土の薩摩国(鹿児島県)で活動します。そしてその高徳により、薩摩を治める戦国大名・島津忠良・貴久父子の帰依を得ました。

その後、大隅正八幡宮の再建を任されるなど地域社会に貢献し、その生涯に幕を降ろします。

日秀上人の魔物ハンターとしての伝説の陰には、深い民衆の信仰と人々の救済を願う精神がありました。彼の足跡は、信仰心と困難に立ち向かう勇気を今に伝えています。

まとめ

日秀上人は、戦国の混乱を生き抜いた真言宗の僧侶であり、琉球に渡ってからは魔物退治や地域再興に尽力した伝説の僧として語り継がれています。

金武町の大蛇征伐、浦添・経塚での妖怪退治、波上宮の再興など、その足跡は沖縄各地に残り、信仰と地域のつながりの象徴となっているのです。

あとがき

少し余談になりますが、本文でもご紹介した浦添市経塚付近は、日秀上人の時代からおよそ500年が経った今でも、不思議な噂が時折ささやかれる地域のようです。

そういう噂の絶えないスポットの一つに、経塚の碑からほど近い前田トンネルが挙げられます。噂の絶えない理由として、本文中にも挙げた玉城朝薫の墓との位置関係が思い当たるのは、おそらく私だけではないでしょう。

それはいったいどういうことなのか?ネットを使って調べるもよし、実際に現地に足を運んでみるもよし、どうぞご自身の目で確認してみてください。

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