後に琉球王国を築いた尚巴志(しょうはし)は、はじめから王だったわけではありません。南部の一地方で佐敷小按司(さしきこあじ)と呼ばれた一人の若者でした。本記事では、尚巴志が生まれ育ち、力を蓄えていった佐敷の地を起点に、島添大里グスクを手に入れるまでの歩みをたどります。歴史の舞台となった場所を、今の沖縄南部の風景や観光と重ねながら、わかりやすく紹介していきます。
第1章|佐敷に生まれた少年・尚巴志とは何者だったのか
この章では、尚巴志の生い立ちと、彼が育った佐敷という土地、そして当時の南部沖縄の状況をやさしく整理していきます。人物像を知る入口として、肩の力を抜いて読んでみてください。
佐敷で生まれた尚巴志という存在
尚巴志は十四世紀後半、現在の南城市にあたる佐敷(さしき)を出身地としています。佐敷は中城湾に面し、内陸と海の双方に目が届く立地でした。尚巴志はこの地で、後に琉球三山を統一するに相応しい優れた才覚を養いつつ育っていったのです。
父・思紹と佐敷按司家の立ち位置
尚巴志の父は尚思紹(しょうししょう)といい、佐敷を治める按司でした。後の初代琉球国王となる人物です。ただし当時の佐敷按司家は、まだ南部全体を支配するほどの大勢力ではありません。強すぎず弱すぎない、いわば中堅ポジションに位置していたと言えるでしょう。
佐敷小按司と呼ばれるまで
成長した尚巴志は、父を補佐する立場として活躍するようになります。ここで重要なのは、彼が単なる跡継ぎではなかった点です。若くして行動力と判断力を示し、周囲から一目置かれる存在となりました。それによって佐敷小按司と呼ばれるようになったのです。
当時の沖縄南部の政治状況
当時の沖縄南部は、南山王を頂点としながらも、各地の按司が強い自立性を持っていたと考えられています。王がすべてを決める体制ではなく、各地の実務はそれぞれの按司に委ねられていたのが実情です。
こうした状況だからこそ、尚巴志とその父思紹は独自の動きが取れたと言えるでしょう。南山の一勢力でありながら、後に中山王を倒し更に北山まで攻め上るに至ったのも、南山における按司の独立性があったためと見て取れます。
第2章|佐敷小按司時代の尚巴志が見せたただ者ではない行動力
この章では、佐敷小按司として活動していた尚巴志が、なぜ周囲から注目される存在になったのか、その理由を具体的に見ていきます。
武勇だけでは語れない評価
尚巴志は勇敢な人物として語られることが多いですが、注目すべきはそれだけではありません。状況を見て動く冷静さと、人の動きを読む知略を併せ持っていました。そういった人物的能力が後の琉球王国樹立へと繋がったのでしょう。
父を支える参謀役としての顔
父である思紹のもとで、尚巴志は実務を担う存在になっていきます。単なる若手ではなく、相談相手として頼られる場面も増えていきました。ここで培われた経験は、後に大勢力と向き合う際の土台となります。佐敷という小さな舞台で、王になるための準備が進んでいたわけです。
生産力を重視した統治者像をうかがわせる逸話
尚巴志については、大量の鉄を入手し農具の製作に回して領地の生産力を高めた、という逸話が語り継がれています。この話は同時代史料で確認できる政策ではありません。しかし尚巴志が軍事力だけでなく、生産基盤の強化を重視した人物として受け止められてきたことを示しています。
当時、鉄は貴重な資源であり、安定した生産力は兵を養い勢力を維持するために不可欠でした。この逸話は尚巴志が戦いの裏で地道に力を蓄え、それが勇躍する原動力の一つになったことを象徴的に伝えていると考えられます。
佐敷グスク跡を歩いてみる
現在の佐敷グスク跡は、南城市佐敷字新里の静かな丘の上に残されています。石垣の痕跡からは、当時の拠点としての重要性が伝わってきます。散策路も整備されており、歴史を知らなくても気軽に訪れやすい場所です。尚巴志が見ていた景色を想像しながら歩くと、物語がぐっと身近になることでしょう。
~佐敷上グスク
中城湾や勝連半島を一望できる尚思招の居城
国道331号沿いにある佐敷小学校裏の丘陵の上に築城されていたグスクで、琉球三山統一を果たした尚巴志(しょうはし)とその父である尚思招(しょうししょう)の居城。
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第3章|南部の実力者・島添大里按司という高すぎる壁
ここでは、尚巴志の前に立ちはだかった最大の存在、島添大里按司について整理します。この人物を知ることで、尚巴志の挑戦の大きさが見えてきます。
島添大里按司の圧倒的な影響力
島添大里按司(しまじおおざとあじ)は、南山でも屈指の有力者でした。現在の南城市と与那原町に相当する広い支配領域を持ち、馬天港や与那原港など領内の港を活用した交易でも栄えていたとされています。
「島添」という言葉には「島々を支配する」という意味合いがあります。琉球の地に初代王朝を打ち立てた舜天王の母方の実家だったという説もあり、尚巴志の時代より遥か昔から続く名門であったことが伺えます。
三山時代の南山では、まるで天下人かのように「下の世の主」とも称されていたようです。南山王をも凌ぐ一大勢力と目されていたのでしょう。
越えなければならない存在
そんな島添大里按司は尚巴志にとって避けて通れない壁でした。真正面から挑めば勝ち目は薄い相手です。それでも尚巴志は、この壁をどう越えるかを冷静に考え続けたのでしょう。その答えが、後の展開へとつながっていきます。
現在の島添大里グスク周辺
島添大里グスク跡は、住宅地と自然が混ざり合う静かな南城市大里地区の高台に位置します。高台からの眺めは良く、東に目をやれば中城湾を一望できます。
中城湾南東側には斎場御嶽のある知念半島、北東側の水平線近くには勝連グスクのある勝連半島が眺望でき、ここが要衝だった理由が実感できることでしょう。南城市や八重瀬町を巡る歴史散策のルートとして、立ち寄る価値の高いスポットです。
第4章|尚巴志はどうやって島添大里按司を倒したのか
尚巴志が島添大里按司をどのように倒したのか。その具体的な経過については、同時代の史料に詳しく残されているわけではありません。ですが、尚巴志の行動や人物像をたどっていくと、力押しではない勝ち筋が見えてきます。
ここでは、史実として確認できる要素を踏まえつつ、こうした視点から考えると自然ではないか、という形で整理してみます。
正面衝突を避けた可能性が高い理由
島添大里按司は、南部でも屈指の勢力を持つ存在でした。単純な兵力や支配範囲を比べれば、佐敷の尚巴志が正面衝突でぶつかって勝てたとは考えにくい状況です。そのため、最初から大規模な決戦を避け、別の形で主導権を握ろうとした可能性は十分にあります。
関係構築を積み重ねてきた尚巴志の姿勢
尚巴志は周辺の按司とむやみに争う人物ではありませんでした。関係構築を優先し、状況に応じて協力関係を結んできたことは、人物像として広く知られています。
一方島添大里按司は、周辺按司に対して軍事力を背景に強権的な態度をとっていたことが伺えます。近隣の大城按司・真武を攻め滅ぼしたと伝えられるのもその一例と言えるでしょう。こうした背景が島添大里按司を孤立させる下地になっていたと考えると、流れとして無理がありません。
生産力を重視していた統治者という評価
尚巴志については、大量の鉄を入手し農具の製作に回したという逸話が語り継がれていることから、軍事力だけでなくそれを支える生産基盤も重視した人物であったと伺えます。安定した生産力を背景に兵を養い、同盟維持にも役立ったことでしょう。
島添大里按司側が抱えていた構造的な弱点
島添大里按司の勢力は大きく、加えて威圧的だったであろうことも考慮に入れると、反乱発生のリスクが高いという弱点を抱えていたと察せられます。加えて周辺按司の不満や温度差が生じやすい状況でもあったことでしょう。
尚巴志がそうした点を見極め、動くべきタイミングを待っていたとすれば、決定的な戦いをせずに形勢を逆転できた可能性も見えてきます。
戦う前に勝っていたという見方
これらを総合すると、尚巴志は戦場で一気に勝ったというより、同盟、経済力、タイミングを整えることで、戦う前に勝てる状況を作り出していたのではないでしょうか。
島添大里グスクを掌握できた背景には、こうした地道な準備の積み重ねがあったと考えると、尚巴志らしい勝ち方が浮かび上がります。
| 項目 | 尚巴志(佐敷) | 島添大里按司 |
|---|---|---|
| 勢力の特徴 | 関係構築と柔軟な運営 | 広域支配だが統制が難しい |
| 重視した要素 | 同盟と生産基盤 | 軍事力中心 |
| 結果 | 島添大里グスクを掌握 | 勢力の後退 |
第5章|今こそ歩きたい尚巴志ゆかりの沖縄南部史跡
先に述べた佐敷グスクや島添大里グスク以外にも、南城市および与那原町には尚巴志と島添大里按司の時代を感じられる場所が点在しています。
尚巴志に敗れた島添大里按司の墓や、交易の窓口であった馬天港や与那原港など、他にも当時を偲ぶ史跡が所々にあります。それらを巡ることで、佐敷小按司・尚巴志の歴史が立体的に見えてくることでしょう。
まとめ
尚巴志は、最初から王だったわけではありません。佐敷小按司として地道に力を蓄え、島添大里按司という大きな壁を越えたことで、歴史の表舞台へと進みました。
その舞台となった沖縄南部には、今も当時を感じられる場所が残っています。物語を知ってから歩くことで、旅はきっとより深く、面白いものになります。
あとがき
島添大里グスクは私自身、近くを通りかかった際によく立ち寄るスポットです。今は公園化され地域の方々に親しまれているようですが、東端にある展望台から見渡す中城湾の眺望はまさに絶景です。

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