那覇「辻」の歴史|歓楽街の奥に眠る女性だけの自治都市

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那覇(なは)の「辻(つじ)」と聞くと、大人の歓楽街をイメージする方いるのではないでしょうか。実はこの土地には、江戸時代から昭和の初期まで、男性が経営に関わらない女性だけの自治組織が存在していました。琉球王国の外交を裏で支えた「ジュリ」と呼ばれる女性たちは、単なる遊女ではなく、独自の掟と絆で結ばれた社会をつくり上げていました。その歴史は1672年から1944年まで続いた後、たった一日の空襲で姿を消してしまいました。今の辻の街並みを歩くとき、そこにどんな歴史が眠っているのか、少しだけ想像してみませんか。

「辻」という地名に隠されたもうひとつの歴史

那覇市の中心部、波上宮(なみのうえぐう)から近い場所に「辻」という地区があります。地元では古くから「チージ」とも呼ばれ、辻村は「チージムラ」という名で親しまれてきました。

夜になるとネオンが灯る歓楽街として知られ、観光客からは近寄りがたい印象を持たれることも多い場所です。ですが、この土地には教科書には載らないもうひとつの歴史が眠っています。

江戸時代から太平洋戦争末期まで、辻は女性たちが主体となって生活する、自治の街でした。今回はその成り立ちから、1672年から1944年まで続いた歴史がどのように幕を閉じたのかという所を、辿っていきます。

多くの観光客が行き交う波上宮の周辺には、今も辻の入り口を示す痕跡がわずかに残っています。普段は何気なく通り過ぎているこの土地に、かつてこれほどの歴史があったと知る人は、地元でも意外と多くありません。

この歴史を伝えてきた那覇市歴史博物館は、2025年8月末をもって19年の歴史に幕を下ろしました。所蔵する国宝資料などは、首里に新しく整備される博物館へ引き継がれる予定で、開館は2026年11月以降が見込まれています。

1672年に誕生した外交のための女性たちの街

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辻の始まりは、1672年にさかのぼります。当時の琉球王国は、中国からの公式な使者「冊封使(さっぽうし)」や、薩摩からの役人を丁重にもてなすという、外交上の重要な役割を担う場所を必要としていました。国の体面を保ちながら、来訪者をきちんともてなす専門の街が、政治的にも求められていたのです。

実は「ジュリ」という存在自体は、1672年より以前からいたとされています。15世紀ごろから中国や東南アジア諸国、日本と交易を行っていた時代に、すでに冊封使一行や大和の商人をもてなす女性たちがいたと伝えられているのです。1672年は、そうした女性たちを辻・仲島の2か所に集め、正式な村として整えた年にあたります。

各地に暮らしていた「ジュリ」と呼ばれる女性たちが集められ、辻・仲島(なかしま)を含む複数の場所に、琉球の花街として整備されました。ジュリは単なる遊女ではなく、琉球舞踊や三線(さんしん)、古典文学、料理などの芸事を幼い頃から磨き上げた、接遇のプロフェッショナルでした。

1683年に琉球を訪れた冊封使節は500〜600人規模だったと伝えられ、滞在期間も半年ほどにおよびました。これほど長期にわたる大人数の来訪をもてなすには、専門の接遇機関がどうしても必要だったのです。

~1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな「辻」~

那覇市歴史博物館

辻がどのように広がり統合されていったのか、以下の表にまとめました。

時期 内容
1672年 辻・仲島に花街を公設
1879年 沖縄県設置に伴いジュリへ登録証を交付
1908年 仲島などの花街を辻へ統合

1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリには18歳で登録証(鑑札)が交付されるようになりました。時代が変わっても、ジュリという存在そのものは公的に認められ続けていたのです。

1908年(明治41)には仲島などの花街が廃止され、辻に統合されました。こうして辻は、政財界の要人や官公庁の指導者、地元の商人までもが出入りする、沖縄県最大の社交場へと発展していきます。接待や宴会の場としてだけでなく、旅客の宿泊先としても利用されるようになりました。

男の立ち入らない女性だけの自治組織

辻の最大の特徴は、女性たちが主体となって生活していたという点です。ここでは女性たちだけの手で、独自のルールの社会が築かれていました。当時の他の地域ではあまり見られない、かなり特殊な仕組みだったといえます。

血のつながりを超えた家族の絆

辻の女性たちは、アンマー(ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、ジュリ、ナシングヮ(アンマーが産んだ子)、チカネーングヮ(貧しさから幼い頃に辻へ売られた子。「コーイングヮ」とも呼ばれました)などで、血のつながりはなくても本当の家族のような関係をつくって暮らしていたそうです。

彼女たちは、辻の親・姉妹はもとより故郷の親・兄弟に対しても、受けた恩を忘れず、人情深く義理を尽くすという教えを第一に生活していたといいます。この精神は、辻村が消滅した後も語り継がれています。

盛前(むいめー)という女性の神職

辻には、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前(むいめー)」と呼ばれる神職もいました。女性による、女性のための自治組織が、経済や生活の面だけでなく、信仰の面でも成立していたことがうかがえます。

ジュリたちは、言葉や立ち居振る舞いから、衣裳や髪型、料理や芸能に至るまで独自の文化を築き上げていました。洗練された琉装(りゅうそう)に身を包んだ姿は、当時の那覇における最先端のファッションとしても人々の注目を集めていたといわれています。

一夜にして消えた辻の歴史と今も続く祈り

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1672年の誕生から続いてきたこの女性たちの街も、太平洋戦争の末期に大きな転機を迎えることになります。栄華を誇った社交場は、ある一日を境に姿を消してしまいました。

1944年10月10日の空襲

1944年(昭和19)10月10日、那覇市街地は米軍による大規模な空襲を受けました。俗に「10・10空襲」と呼ばれ、辻の街並みは焼け野原となり、1672年から続いてきた歴史は、わずか一日で消えてしまいました。

この空襲は早朝から夕刻まで9時間、5次にわたって行われ、那覇市内では約9割の家屋が焼失したと伝えられています。現在の辻には、当時の料亭や建物はほとんど残っていません。

辻新思会が継ぐ祈り

辻の歴史と祭祀を今に伝える活動をしているのが、一般財団法人「辻新思会(つじしんしかい)」です。1977年に設立されたこの団体は、かつてここで生きたジュリたちの鎮魂と、伝統文化の継承に取り組んでいます。

辻新思会が現在も続けている活動には、次のようなものがあります。

  • 毎年、旧廿日正月(きゅうはつかしょうがつ)神事を執り行っています。
  • じゅり馬まつりの復興と運営を続けています。
  • 辻開祖の墓での清明祭(シーミー)なども欠かしません。

男性の姿が消えた辻の街ですが、今も年に一度、当時の祈りをかたちにする行事が続けられています。街の記憶は、姿を変えながらも、こうして静かに受け継がれています。

辻の歴史を知って私が感じたこと

私は今回、辻の歴史を調べるまで、この場所がまるで女性だけの「独立国家」のように、男性の手を借りずに女性たちだけで成り立っていたことをまったく知りませんでした。周りの友人に聞いてみても、詳しい歴史まで知っている人はほとんどいません。

1672年から続いていた辻の街が、たった一日の空襲で終わりを迎えてしまった と知ったときはショックを受けました。今、私たちが何気なく歩いている場所の下に、かつて祈りながら力強く生きていた女性たちがいたのだと思うと、切ない気持ちになります。

同時に感じたのは沖縄の女性たちの粘り強さです。厳しい境遇の中でも、義理や人情を大切にしながら独自の社会をつくり上げた辻のジュリたちの姿は、今の沖縄で出会う女性たちの芯の強さと、どこか重なる部分があると感じます。困難な環境の中でも、周囲との絆や恩を大切にしながら生きていく姿は、今も昔も変わらない沖縄らしさなのかもしれません。

この歴史を知ってから辻の街を歩くと、ネオンの下に流れる時間の重みを、以前より感じられるようになりました。何気ない路地の奥にも、かつての暮らしの風景が思い浮かんできて、辻の町が少し違って見えました。今度は波上宮までゆっくりと歩いて、辻の入り口あたりも見てみようと思います。

まとめ

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辻は江戸時代の1672年、外交のために生まれた女性だけの自治都市でした。ジュリたちは受けた恩を忘れず、人情深く義理を尽くしながら、盛前という神職を中心に独自の社会を営んでいました。その歴史は空襲で幕を閉じましたが、辻新思会によって祭祀は今も受け継がれています。

華やかな歓楽街としての顔の裏に、女性たちが築いた自治の歴史があったことを知ると、辻という土地の見え方も少し変わってきます。那覇の夜の街を歩くときは、その足元に眠る歴史にも、少しだけ思いをはせてみてください。

あとがき

辻について調べるほど、沖縄という土地には、まだ知らない歴史がたくさん眠っているのだと感じました。有名な観光地の裏にもこうした物語があると思うと、次はどんな場所を訪ねてみようか、自然と考えたくなります。

那覇に行くときは、私のしらない沖縄の歴史がたくさんあるのだと思いながら歩いてみたいと思います。沖縄で暮らしていても、まだまだ知らないことはたくさんあるのだと、あらためて実感しました。

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